ConceptThis is a ritual writing that I will never edit or delete afterward. 

It will be never finished. 

I write as I think with errors and confusions.


2024

  
June 16th  今日の僕が考えていることを書いてみようということ、そしてそれが現在の自分を同時にシェイプしていくということ、そこに書くことの面白さがある。まさに「テクスト」でありそれが僕の現実、僕を形成していく。


大学院を修了し、ここまで駆け抜けてきた自分を振り返りながら同時にどこへ向かっていくのかを考える必要に駆られている。僕はやっぱりアメリカに来て自分の日本人性に気づいたこと、そして禅宗が与えてきた日本の文化への影響、いや日本文化そのものに興味を持っている。それがどんなものなのか未だ言葉できっちりと説明することはできない。しかし生きるということにおいてどのような姿勢で時間を過ごすのかということを昔から我々日本人は考えてきた。それも四季折々の自然が魅せる姿のなかに自分自身を投げ込みその一部となってそれを行ってきた。僕はこの日本人の「現在」というものに対する姿勢に感銘を受けた。そしてそれは僕の日々の生活の中でも体験してきたことだ。この日本人が培ってきた人生に対する姿勢を僕は美だと思う。それはいわゆるAestheticsではない視覚的に物事が美しいのではなく心を揺さぶられる美しさを持っているのだ。僕はこの美をもっと体験し、知り、研究し、人に伝えるということを行なっていきたいとここから思っている。無の境地に達した時にそこに留まっていてはならないということを十牛図では言われているが、僕が体験したこの時間の体験そのものを僕だけが体験し続けるのではなくして、町に降りて人に伝える必要があると思う。それが僕が芸術を行う目的ではないかと考えている。人に何かを教えるとかそういう態度でもなく、それは僕が僕の「姿勢的芸術」によって見る人に伝わり彼らの現実への見方を少しずらすことができればと願う。それは何かを定義する行為でも批評する行為でもない。その姿勢を通して何かが体験され何かが変化するということ。またそれは「観念的芸術」ともまた違う。コンセプチュアルアートは観念によって作品を構成する。しかし僕の作品は観念によって構成できないものだ、観念は作品からノイズを取り除く際に使用するもの。そして文脈を作り出す人たちがそれを「分節」するために使うものであって、僕がそれを用いて説明するものではないのだ。僕は説明なんて一切興味ない。諂いの至り。


僕のプラクティスは自分がどんな状況にあっても自分のスピードで、そして「向こうからやってくる」と僕はよく自分に言い聞かせるけれども、それが起こるべくして勝手に起こるものだ。だからゆっくりと前に進み続けようと思う。でも現実的に生活をしていかなくてはならない。これが難しい。僕が学んだことを商業的にアート思考だクリティカルシンキングだと言って用いることなんて一切興味はないわけだし、僕のアートプラクティスをマネタイズしようという気持ちもない。僕の芸術は所有できないもの。体験であり現実であり生成変化を繰り返しているから。だからこそどのようにこれから生活していけばいいのか。昨日父親と電話で話していて納得したのは、僕が行なっている芸術は学問であり研究ではないかという話。僕もそうであると思う。従来のアートマーケットで僕が生きていくところなんてないわけで。日本の思想や茶、禅、西田、和辻や井筒など今興味を持っている分野を研究しながらそれと芸術、それと現代社会をつなげることをどうにかできないだろうか?